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占星術で見た
徳川家康


 

 中西正和歴史年表によると徳川家康は天文11年12月26日、ユリウス暦1543年1月31日に生まれている。場所は三河岡崎城。出生時刻は不明と思いきや、いろいろ調べてみると午前4時頃との記述もある。早速に占星天球図を描いてみて、しばし思案にくれた。どうもシックリこないのである。そこでこれは参考時刻にとどめ、観球子が独自に出生時刻を推測することにした。ただし、これはあくまでも独断に基づくものであることを、はじめにお断わりしておく。

 家康の性格を特徴づけるものとして忍耐強さ、堅実さ、周到さ、狡猾さ等があげられよう。家康の人生は織田信秀、今川義元のもとでの人質生活に始まり、今川氏滅亡後は織田信秀の子、織田信長との友好的な同盟関係。信長亡き後は豊臣秀吉との熾烈なライバル争いと不本意な主従関係。そして秀吉亡き後は飽くなき執念で、ついには豊臣氏の天下を簒奪して将軍となり大往生を遂げている。

 これらは家康という人物について語るときに、欠かすことのできない重要なポイントとなる。こうした条件を満たす出生時刻は午前10時を少しまわったところ、というのが観球子の出した結論である。できあがった家康の天球図を見てみよう。

 


 

徳川家康の占星天球図

徳川家康の出生データ

徳川家康の天球図

 

天球図の記号の説明


Sedna, Quaoarを加えた徳川家康の占星天球図




 

徳川家康の人物像

 

 もとよりこうして作成した占星天球図には、賛否両様の見解があることは承知の上で、家康の天球の調べをちょっと聴いてみることにする。やはり目を引くのは、天下の覇権を握りたいという執拗な欲求、野心ではないか。言葉はあまりよくないが目的のためには手段を選ばず、という強い意志があらわれている。またそれだけの器量も備えているし、しっかりと後押しをしてくれる盟友、参謀にも恵まれている。不屈の意志、優れた能力、卓越した智謀、不断の努力、強力な同志との連帯に幸運も味方して、最終的に天下の覇者に登りつめることができたのであろう。

 信長ぬきの天下人家康など到底想像できないほど、家康の人生において信長の存在が巨大なものであったことは、論を待たないであろう。信長というよき庇護者を得て、強力な同盟関係を結ぶことで、家康もしだいに実力を蓄え、その後の飛躍に結びつけていくことができた。一方で秀吉という宿命のライバルの存在が、家康の行く手を遮り、思わぬ回り道を強いられる結果ともなった。得るところの多い同盟と、熾烈なライバル関係が顕著にあらわれている。

 家康出生当時の松平(徳川)氏がおかれていた政治環境、時代背景からくる複雑なお家の事情が、生涯にわたって家康の心にわだかまりを残すことになったようだ。人生の一時期、閉塞感にとらわれる暗示がある。幼少期に織田信秀、今川義元のもとで人質として過ごしたことを示唆するものであろう。同時に父親との早い時期の離別も避けがたかったようだ。

 また戦国の武将として、闘志は十分に持っていたのであろうが、これがやや抑制、抑圧されていたこともあってか、気難しく、怒りっぽい面もあったようだ。闘志がいくぶん抑えられていた分、学問と思索に余分なエネルギーが向かっていたのであろう。終生書見を好んだようだ。

 家康はやはり待ちの人である。早まって行動を起こすようなことはまずない。機が熟すまでじっくりと待つ。石橋を叩いて渡る、というより叩いてもなかなか渡らない。はたから見ればグズに見えるかもしれないが、慎重の上にも慎重を期しているのである。

 熟慮の人である。深慮遠謀がきく。生来、はかりごとが好きである。人の話にはよく耳を傾け、あらゆる情報を集め、しっかりと情勢分析を行う。決して独断に走らない。自己の信念に揺るぎがないから振り回されることもない。しかしひとたび決断すれば、こんどは断固として推し進める。わき目も振らないで突き進む。こんな人物像が浮かび上がってくる。

 


 

徳川家康の生涯

 

 さて、では家康は人生の重要な節目において、どのような天球の調べを聴き、いかに対応したのであろうか。4歳で織田氏、6歳で今川氏の人質となり、桶狭間の合戦で今川氏が滅んだ結果開放される、17歳までのつごう13年間を異郷の地で過ごした。

 幼くして親元から引き離され、人質として人生の第一歩を踏み出さねばならなかった家康の胸中は察するに余りあるが、といってこの時期先の見えない絶望感に打ちひしがれて生きていたのかというと、必ずしもそうとばかりはいえないようだ。

 今川氏のもとで日々学問、修養を積み、将来天下人となるのにふさわしい、いわば帝王学のようなものを修めていたようだ。そういう観点に立てば貴重な充電期でもあり、想像以上に充実したときを過ごしていたともいえよう。天球の星々が奏でる帝王学の子守唄でも聴いていたのであろうか。

 今川氏からの開放後は信長と同盟を結び、有力な戦国大名として着実にその地歩を固めていった。天球の調べとよく調和していた時期でもある。

 次にやってきた大きな転機は、やはり本能寺の変であろう。天下を狙うまたとないチャンスであったが、秀吉に先を越されて苦杯を舐めさせられている。確かにこの時、家康の天球の調べに法螺貝の響きはなかったようだ。現代風にいえば突撃ラッパではなくて、消灯ラッパだったようだ。家康はこれでだいぶ人生の回り道をすることになる。秀吉との不本意な主従関係、三河から当時未開の江戸への転封、と苦渋の日々が続く。

 そして、いよいよ家康が桧舞台に立つときがくる。秀吉の死去とそれにつづく関ケ原の合戦は、満を持して登場した家康に、天球の調べもトキの声をあげて応え、家康の天下を不動のものにした。こののち江戸に幕府を開き、幕藩体制を確立していく。再び天球にトキの声があがると、最後の仕上げとして大阪冬の陣、夏の陣をしかけて宿敵、豊臣氏との確執に終止符を打った。

 以上が観球子の描いた天球図から聴こえてくる、天球の調べに基づいてまとめた、徳川家康の簡単な人物像と生涯である。


 さて、ではあなたの占星天球図はどうなっているのでしょうか。

 


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