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占星術で見た
織田信長


 

 中西正和歴史年表によると、織田信長は天文3年5月12日、ユリウス暦1534年6月23日に尾張の勝幡で生まれたとある。出生地については那古野(名古屋)説も有力である。尾張領内の近接した場所であり、占星天球図に大きな差が出るわけではないので、ここでは通りのいい那古野を採用する。出生時刻の記録は見当たらないので徳川家康豊臣秀吉と同様に人物像、経歴から推測することにする。

 織田信長は若い頃は「うつけ者」と揶揄されるほどに奇矯な振る舞いが目立ったが、当の本人は世間の評判など一向気に留める風でなかった。独自の価値観に基づく、個性的で独善的な人生観、世界観の持ち主であったようだ。

 信長は非常に気性の激しい人物であったという。周囲の助言、忠告に全く耳を貸さないどころか、気に入らなければ例え重臣であろうと追放も辞さず、というくらいの独断専行ぶりであった。裏切りには一切の言い訳を許さず断罪している。反逆に対しては徹底した弾圧と皆殺し戦術で臨んでいる。全く容赦のない性格である。

 尾張の弱小守護代であった信長は、桶狭間での奇襲戦の勝利で、並み居る戦国大名の中に彗星の如く現れ、そのまま天下統一に向けてひたすら走り続けた。戦につぐ戦の末、やっと天下に王手をかけかけたところで、家臣明智光秀の謀反にあい、48年の短い生涯を閉じている。華々しい戦歴とは裏腹に、何とも呆気ない人生の締めくくりとなった。

 こうした人物像、経歴から信長の出生時刻を種々検討した結果、午后2時を少しまわったところ、とするのが妥当との結論に達した。もちろんこれは観球子独自の分析、検討に基づくもので、他の出生時刻の可能性を排除するものではない。

 


 

織田信長の占星天球図

織田信長の出生データ

織田信長の天球図

 

天球図の記号の説明

 


 

織田信長の人物像

 

 信長の占星天球図から聴こえてくる天球の調べを聴いてみよう。この天球図からは、確かに天下を狙いたいという意志は伝わってくるが、意志と能力は別物である。意志があっても、その裏づけとなる能力が無ければ所期の目的を達成することはできない。ましてや信長のような弱小守護代という立場の者には、何人も及び難い程の卓越した能力が求められよう。しかし一見したところ、それらしき調べは聴こえてこない。

 種々に精査を繰り返し、ようやく出生前の日食に行き当たった。信長誕生の年の1月14日に部分日食があった。これは日本では見られなかったが、出生前の直近の日食になる。位置は信長出生時の冥王星から、角度で1分以内のところである。冥王星は「破壊と再生」、「両極端」を意味する惑星である。日食は太陽が月に遮られて光を失い、再び光を取り戻す天文現象である。天球図の惑星、仮想点の上で、出生前に日食あるいは月食があると、その惑星、仮想点が著しく活性化されることになる。

 出生前の日食と重なった、冥王星が放つ強烈なパワーをもってすれば、「信長の野望」も、もはや絵空事ではなくなり、一気に現実味を帯びたものになってこよう。冥王星、火星、アセンダントからは、一切の妥協を排して、初志を貫徹せんとする凄まじい意志と意気込みが滲み出ている。己の信ずる処に従い、あらゆる精力と精神力を注ぎ込み、目標を追い求め続ける。往く手を阻むものは、たとえ親兄弟であろうと切り捨てて進む。ましてや家臣の一人、二人など物の数ではない。

 しかし信長にも弱点が潜んでいた。獅子身中の虫、家臣の裏切り、背信である。信長の性格からして、日頃から警戒は怠らなかったであろうが、この時ばかりはどうしたことか、過信と油断から明智光秀による謀反「本能寺の変」に遇い、落命している。これに続く「山崎の合戦」で光秀に勝利した豊臣秀吉が、今度は主君筋である織田家をないがしろにして、天下を自分の手中に収めている。何とも変転極まりない展開である。

 信長の一生は戦いに明け、戦いに暮れたといっても過言でない程に、戦続きの人生であった。しかも多くは楽勝といえる戦いではなく、どちらかと言えば薄氷を踏むような勝利で、まさに綱渡りの人生であった。

 妥協を許さない性格ゆえ、徹底して相手を打ちのめすまで戦っている。しかも一旦は勝利を収めても、再び反撃に会い苦戦を強いられることも多かった。越前の朝倉義景攻めに際しては、妹お市の婿で同盟関係にあった近江の浅井長政の裏切りに遭い、ほうほうの態で美濃に逃げ帰っている。苦渋に満ちた同盟関係と、宿敵との戦いの連続である。

 信長は時代を先取りした進歩的で、独創的な考えの持ち主でもあった。そもそもが伝統や慣わし、といったものに捉われない性格もあって、常人の想像を遥かに越えた遠大なビジョンを思い描いていた。普通の感覚からすれば、群雄割拠の戦国の世で、弱小の守護代が天下を狙うということ自体、大それたことであろう。それを本気で考え、実行に移しているのである。

 戦略面では兵農分離を推し進め、常備兵を持つことで兵力を自在に運用し、天下布武を可能にしている。また旧来の宗教勢力が、天下統一の前に立ちはだかったということもあって、徹底的な弾圧と殺戮を繰り返して、その世俗的権威を失墜させ、影響力を大きく削いで、結果的に政教分離を実現している。

 信長は秀でたビジネスセンスの持ち主でもある。関所の廃止、楽市楽座の奨励によって商工業、流通を盛んにし、経済活動を活発にして領国の経済を潤わせている。また異国の風変わりな文物には目が無く、バテレンを保護して、西洋の進んだ知識、技術の吸収に努めている。当時の最新兵器である、西洋伝来の火縄銃を積極的、かつ大胆に活用したことなどはこの範疇に入るであろう。また茶道具に凝り、茶の湯を嗜んだのも、変わったもの、目新しいもの好きの性格が大いに関係していよう。

 


 

織田信長の生涯

 

 情緒的な面からいって、信長の家庭環境はあまり恵まれたものではなかったようだ。織田家一族内の抗争か、親子関係の異常さが、信長の幼少期に相当悪影響を及ぼしていたように推測される。そういった関係からか、若い頃の信長は、傍目には異常としか見えないような奇矯な行動を繰り返している。天球の調べも不協和音の混じった不快なものであったようだ。 

 美濃の斉藤道三の娘、濃姫を娶った頃から天球の調べも落ち着いてくる。父信秀の急死後は実力で家督を相続し、尾張領内の平定に努めている。そんな矢先、突然転機が訪れた。隣国駿河の今川義元が2万5千の大軍を率いて尾張に攻め入ってきたのである。ここで信長は一か八かの奇襲戦法に出て、僅か3千の兵力で勝利を収めている。世に云う「桶狭間の合戦」である。これで一気に戦国大名の一角を占める実力大名に名乗りを上げることになった。天球の調べもトキの声を上げて声援したであろう。

 その後、領国尾張の統一を果たし、さらに三河の松平元康(徳川家康)と同盟を結んで背後を固める。続いて京への途上に立ち塞がる隣国美濃の斉藤氏を滅ぼし、濃尾二国を治める押しも押されもせぬ大大名となる。しかし、天下統一の野望に燃える信長には、まだやっとスタートラインに立った程度の認識しかなかったであろう。これより、いよいよ天球の調べもピッチを上げ、「本能寺の変」までまっしぐらに突き進むことになる。

 足利義昭を奉じて上洛、義昭を室町幕府の15代将軍につけて傀儡化し、本格的な天下統一事業に乗り出す。越前の朝倉攻め、比叡山延暦寺の焼き討ち、伊勢長島・越前の一向一揆の鎮圧、丹後・丹波の制圧、武田信玄との三方ヶ原の戦い、武田勝頼との長篠の戦い、河内の石山本願寺との10年戦争、臣下の豊臣秀吉による毛利攻め等、信長の生涯はどっぷりと戦漬けになっていた。

 特に宗教勢力に対する弾圧は徹底しており、ジェノサイドと言っても過言でないほどの凄まじさであった。この宗教勢力に対する執拗な攻勢、弾圧が、中世以来続く宗教のクビキから民衆を解き放つことになり、近世への扉を押し開けることになったようだ。

 戦国の世を馬車馬の如く駆け抜けた信長の人生にも、いよいよ終わりを迎える時が来る。天正10年6月2日、ユリウス暦1582年6月21日未明、明智光秀が本能寺に宿泊していた信長を奇襲し、48年の短い生涯を閉じている。奇しくも前日20日の午后には、沖縄(琉球)の石垣島で皆既日食が見られた。京でも6割方は欠ける部分日食になったようだ。因みに日食は信長出生時の太陽位置の僅か2度半手前で起きている。

 この年の10月には、ユリウス暦から現行のグレゴリオ暦に切り替わるが、試みにグレゴリオ暦に換算してみると6月30日の皆既日食となる。季節は丁度梅雨の真最中である。たぶん信長がこの部分日食を目にすることは無かったであろう。出生前の日食による強烈なパワーを授かって、この世に生を受けた信長が、再び日食の迎えを受けて還っていったとも言えようか。なお信長の生前に日本では、部分日食が都合6回ほど見られたことを付け加えておく。
 

 さて、ではあなたの占星天球図はどうなっているのでしょうか。

 


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