観球会の天球の調べ★ご案内



占星術で見た
豊臣秀吉


 

 豊臣秀吉の誕生日には二説ある。中西正和歴史年表によると、天文5年1月1日、ユリウス暦1536年1月23日と、天文6年2月6日、同暦1537年3月17日である。貧農の生まれで、誕生日に二説あるくらいだから、当然のことながら信頼に足るような出生時刻の記録はない。したがって徳川家康の占星天球図と同じように、その人物像と経歴から出生時刻を推測するほかない。

 秀吉は俗に「人たらし」といわれるように、弁舌巧みに相手の気持ちを捉えて、うまく自分の虜にする、いわゆる人心収攬術に秀でていた。また気性は豪放磊落、発想は雄大無比で、万事につけ派手好みであったという。貧農の子の生まれながら、織田信長の家臣として出世を重ね、信長自害の「本能寺の変」に際しては、冷静な情勢分析に基づく機敏で巧みな戦略で、首尾よく信長の後継者の地位に納まっている。その後は信長の事業を引き継いで天下統一を成しとげ、天下人として権勢をふるった。

 こうした人物像、経歴から秀吉の占星天球図を推測すると、まず天文5年1月1日説が脱落する。残るユリウス暦1537年3月17日の天球図を描いて、出生時刻を種々検討した結果、午后1時過ぎの生まれとの結論に達した。言うまでもなく、これは観球子が独自の分析に基づいて推理したもので、この時刻の信憑性については、保証の限りでないことを予めお断わりしておく。

 


 

豊臣秀吉の占星天球図

豊臣秀吉の出生データ

豊臣秀吉の天球図

 

天球図の記号の説明

 


 

豊臣秀吉の人物像

 

 ではさっそく秀吉の占星天球図から聴こえてくる、天球の調べに耳を傾けてみよう。「ネアカ」人間というのが最初に受ける印象である。過去に拘らず、将来の可能性にかけるプラス思考の持ち主で、積極的に事を推し進めて留まる所がない。攻めには滅法強いが、守りには少し不安が残る。情報収集に不断の努力を怠らず、的確な状況判断と、果敢な行動力で人に先んじる。また優れた外交手腕の持ち主で、人の気持ちを捉えるコミュニケーション能力には天性のものがある。

 秀吉の戦略は戦で勝つことよりも、外交を通して勝利を収めることに主眼を置いたものだ。そのために種々の情報戦を仕掛け、様々な舞台装置を駆使して、心理的に相手を追い詰める作戦が主流をなしていたようだ。出来るだけ自陣の犠牲を減らして兵力を温存する。と同時に敵の犠牲も少なくし、戦に勝利した後は相手の兵力をそのまま自陣に受け入れられるようにしている。「1−1=0」の共倒れ的な発想ではなく、「1+1=2」を狙った戦力倍増の賢明で、効率の良い戦法である。

 秀吉の天下統一戦略は、連帯と協調を基調とした宥和的なものである。ひとたび自陣の軍門に降れば、過去は問わず自陣の一員として迎え入れた。これは単なる打算を越えて、一人の武将と武将を深い絆で結びつけるものであった。こうして勝ち得た幅広い支持と人望で、それまで敵対関係にあった者でも、一旦臣下となると最後まで秀吉に忠誠を尽くそうとした。

 秀吉のこうした秀でた外交手腕と、寛大で宥和的な精神が分裂、混乱した天下の統一にいかに大きく寄与したか、想像するに難くない。秀吉は、まさに人間関係学の天才ともいえる貴重な資質を備え持っている。

 秀吉の天球図でもう一つ強調されているのが遠隔地、海外である。天下統一事業の過程では、当然全国各地を転戦してまわらねばならず、遠隔地での活動が必然的に増えてくる。天下統一後には、朝鮮に二度にわたって出兵しているくらいである。海外を含む遠隔地への遠征が、秀吉の人生の主要な目的となっている。こうした目的達成のため、多くの資質がこの分野に割り振られ、大いに寄与している。ただ少し誇大妄想的な所があり、当面の目標達成に伴う気の緩みや、健全な思考力、判断力に衰えが出てくると、次第に妄想に左右されることが多くなるようだ。

 人望、目上の引き立て、職業上の幸運等のいわゆる出世運に恵まれ、しかもそれに必要な才覚も備えいる。成功が秀吉を招き寄せたともいえよう。秀吉にはビジョンがあり、しかも相当に独創的なものである。ただ独自性に拘り過ぎてか、ことさらに奇を衒うようなところがあり、周囲の者はこれに合わせるのに苦労させられたであろう。時に偏屈な一面を見せることもあり、自分に対抗心を持つと見做した者に対しては、容赦がなかったであろう。これもすべては、自身は独創的かつユニークな存在で、並び居る者はないと考えていたからである。かなりアクが強い性格である。最もそうでなければ天下など取れはしないであろうが。

 財政運営の面では、歴史に名を残す太閤検地にみられるように堅実で、手堅い手法をとるようだ。何といっても国家運営で最も重要なのは、税の安定徴収と増収であり、その基礎は租税台帳の整備にある。それから言えば当然のことをしたわけであるが、日本史上初めて、しかも徹底して実行したと言うところに、秀吉のビジョンのユニークさと、実行力が如実に現れている。最も使いっぷりも並外れていたようで、これは性格の派手さによるところが大であろう。

 


 

豊臣秀吉の生涯

 

 では秀吉は人生の節々で、どのような天球の調べを聴き、いかに対応したのであろうか。貧農の家に生まれ、14歳で家を出て、諸国流浪と土豪に仕えた後、21歳で織田信長に仕官している。これが秀吉のその後の人生を大きく変えることになる。天球の調べに誘われて来たかのような出会いである。ただ農民の出ということもあって、当初は足軽以下のただの小者、雑役夫であった。この頃の秀吉の天球の調べは、未だ調整段階にあったようだ。

 天球の調べが調整を終えるのに長くは要しなかった。持ち前の才気と行動力ですぐに信長の目に留まるところとなり、足軽に取り立てられていく。24歳でねねと結婚したあたりから、天球の調べもいよいよ本来の旋律を奏で始めたようだ。チャンスは間もなくやって来た。世に云う「墨俣一夜城」での活躍で、その後の出世街道驀進の端緒を開くことになる。この辺りから、秀吉の天球の調べは次第にピッチを上げていくことになる。秀吉29歳のことである。

 浅井攻めの功により、近江長浜城の城主になり、37歳にして初めて一国一城の主となる。さぞや美しい天球の調べを聴いていたことであろう。まもなく転機は思いもかけない形でやって来た。備中高松城攻めの最中に、信長自害の「本能寺の変」の報がもたらされた。この時の秀吉は、実に機敏で果敢に行動している。まさに秀吉の才覚、知略、行動力の賜物であろう。謀反人明智光秀の天下を、世に云う「三日天下」に終わらせている。45歳にして秀吉の天球の調べはいよいよ佳境に入ってきたようである。

 引き続いて信長の重臣柴田勝家を破り、大阪城を築城、徳川家康とは和睦して、信長の後継者の地位を不動のものとした。主君信長の遺業を引き継ぐ際のかなり強引な手法も、天球図に見て取れる。以後、天球のトキの声に押されて、破竹の勢いで全国平定を進め、53歳で天下統一を成し遂げている。そろそろ天球の調べもピッチを落としてくるころであり、守りに入る必要があるにも拘らず、秀吉はこれに気づくことなく、相変わらずの強気一辺倒で朝鮮に出兵して、豊臣家臣団の力を消耗させている。

 秀吉56歳にして実子秀頼が誕生すると、事態は一転して暗転し始める。後継者と定めていた甥で養子の秀次を自刃に追い込み、糟糠の妻ねねと秀頼の生母淀君とは反目し合い、さらには石田三成ら文治派と武功派大名の確執等、豊臣政権中枢部のタガは確実に緩んできた。天球の調べが勢いを失った状況下で、攻めには強いが守りに弱い秀吉の性格が仇となり、事態を一層悪化させることになった。

 秀吉の天球図には、実子秀頼に対する執着、心配、苦悩が現れている。配偶者についても、ねねと淀君の両者並立の難しさを示している。61歳で秀吉が没すると、豊臣家の権勢は坂道を転がるように、一気に衰え始めている。やはり秀吉は天下統一までの中継ぎ的な存在でしかなかったのか。封建統一国家の運営には、攻めに強い秀吉よりも、守りを固めた家康の方が適任であったといえるのかもしれない。
 

 さて、ではあなたの占星天球図はどうなっているのでしょうか。

 


   ★ご案内

☆メール      


Copyright(C) 2004 観球会の天球の調べ All rights reserved .